●敗軍の将、兵を語らず
俺は長らく医学関係の書評を出して来なかった。それには理由がある。俺の父親が癌で死亡してしまったからだ。しかも我が家は自然治癒力を使って癌を治して行くという運動をやっていたので、それなのに自分の父親が癌で死亡してしまったというのは、もう何も弁解できないのだ。
「敗軍の将、兵を語らず」というのはまさにこのことで、俺自身、医学のことには何か言うことを控えてきた。ただ父親の看病をやっていたことを思い出して残念でならないのが、癌が発覚した時に、国立がんセンターに行ったのが拙かったということなのである。
俺は「行くな」と忠告したのである。大体、国立がんセンターで治療を受けても、患者たちは結局、全員死んでいるし、それに我が家では癌治療に関してかなりの知識や技術の蓄積があったのである。それを無視して父親は行ってしまったから、あんなにも早くに死んでしまったのである。
今回紹介するのはこの本!
中村仁一著『大往生したけりゃ、医療とかかわるな」(幻冬舎)
俺はこの本を手に取った時、あんまり期待しないで読み始めた。医者が書く本は基本的に自慢話なのであって、その医者が手柄を立てたために犠牲になっていった患者たちがいることを知らないのだ。しかしこの本はそれがなく、医者たちのやっていることを否定しているのである。
俺はこの本を読み始めてすぐに、
「この著者は臨済宗の信者だ!」
と直感した。臨済宗は禅問答を重んじるので、本の書き方に「平明さ」があるのだ。禅問答自体が難しい物なので、そういう難しいことをやっているから、いざ本を書かせると難しいことを一切書かず、本当に解り易いように書くのだ。それでいながらレベルは高いのである。
そこで著者のプロフィールを見てみると、中村仁一は医師であり、老人ホーム同和園付属医療診療所所長である。この同和園は京都仏教会の前身である京都仏教護国団によって設立された社会福祉法人である。著者自身は熱心な仏教徒ではないが、臨済宗と関係があり、やっぱ臨済宗の人だったのである。
●医療が「穏やかな死」を邪魔している。
人間は事故とか戦争とかで死ななければ、本来「穏やかな死」を迎えるようになっている。人間はそういう動物なのである。苦しみながら死ぬということは有り得ない。そういう死に方をするということは、病気になった時、医者が余計な治療をやっているからなのである。
なぜこの当たり前のことが解らないのかというと、殆どの医者たちは病院で働いており、病気を治すことに躍起になってしまい、その後、患者がどうなるのかということを知らないからなのである。病院の医者はどんなに名医であろうが、そこには限界があるのである。
老人ホームの場合、そこで老人たちが余生を過ごすと共に、最後には死んでいくことになる。そうなると、老人たちは老人ゆえに病気のオンパレードだということが解るし、老人たちはその老いた体を騙しながら生きて、最後は安らかに死んでいくということが解るのである。
医療というのは確かに速効性があるのだが、その力を使って、人間が穏やかに死んでいくことを妨害してはならないのだ。医者は絶対に医学バカになってはならず、人間全体を見渡した上で、ほんの少しだけ医療を施すくらいの謙虚さが必要なのである。
日本では病院から宗教が取り除かれた状態になっているのだが、本来、病院というものは宗教の影響下に置かねばならぬものなのである。そうしないと医者たちが万能感に囚われてしまい、なんにでも手を出してしまうからだ。しかしそんなことをやれば人間の体は逆に傷み、寿命を縮めてしまうことになってしまうのである。
●治療の四原則
中村仁一医師は、「治療の根本は、自然治癒力を助長し、強化することである」と考える。まさにその通りだと思う。人間の体には自然治癒力があるのであって、それを使えばどんな病気でも治して行くことができるのである。医者がすべきことはそれを活かすことだけなのである。
自然治癒力を使った治療には「治療の四原則」というものが存在する。
①自然治癒力の過程を妨げぬ事
②自然治癒力を妨げている物を除く事
③自然治癒力が衰えている時は、それを賦活させる事
④自然治癒力が過剰である時は、それを適度に弱めてあげる事
自然治癒力の存在になかなか気付けないのは、自然治癒力の発揮を妨げる何かがあるからなのである。通常の場合では体の冷やしすぎだ。体が冷えているために免疫力が巧く発揮できず。それで病気が侵攻して行ってしまうのである。
それと食事過剰である。人間は食事をすると、その食べ物の消化吸収に大量のエネルギーを使う。このため食事過剰になってしまうと、食べ物の消化吸収にエネルギーを取られ過ぎてしまい、それで体を健康にすることができなくなってしまうのである。
だから人間が病気になったら、「断食」というのが一番良いのだ。断食して食事をしなければ、その分、体はエネルギーを病気の撃退に使えるのである。気をつけるべきは脱水症状を引き起こすことであり、喉が渇いたのなら、白湯でも飲んで水分補給すればいいのだ。
恐ろしいことに、人間は年を取り、老衰で死ぬ間際になると、食事を取らなくなるだけではなく、水すらも受け付けなくなる。水を7日間飲まなくなると、自然とお迎えが来るのである。人間の体はそうなっているのであり、普通の病気なら断食という手法を使うべきなのである。
●できる限り尽くすことは、できる限り苦しめる
自然治癒力が解っていない医者は患者の持つ自然治癒力を全く無視して、医学の力だけで治そうとすることになる。そうやってできる限り尽くすことは、できる限り患者を苦しめてしまうことになるのだ。患者は自然治癒力が使えないので病魔が急速に侵攻し、しかも激痛を伴いがら死んでいくことになるのだ。
厄介なのは、その医者がキリスト教徒である場合、この行為が「隣人愛」というキリスト教の教義に裏付けされるものであるために、無制限にやりまくるのである。このためキリスト教徒の医者の手にかかろうものなら、苦しみながら死んで行ってしまうのである。
愛という物は時として危険な物になってしまうのである。
俺がこの本を読んだ時、「これはキリスト教徒が書いた本ではない」ということがすぐに解った。医者として患者を殺しまくれば、必ず心は歪むものなのである。それをキリスト教によって隠蔽するのだが、そんなもん、まともな宗教心があれば確実に見破ることができるものなのである。
かといって仏教だからといって安全というものではない。仏教にも「慈悲」というものがあるから、仏教に帰依する医師が医療の現場で慈悲を実践すれば、キリスト教の医者よりは酷くはならないにしても、それなりの悪業を平然とやってのけてしまうのである。
禅宗の言葉で言うなら。「見性成仏」と言うべきか、その患者が病気で苦しんでいる姿を見るのではなく、その患者の中にある仏性を見ろということなのである。自分が医者だからといってあれこれ何か手を下すのではなく、患者を仏様と思って接すれば、自然と自然治癒力を活かした治療ができるというものなのである。
だからこんな本は禅宗の一派である臨済宗の人でしか書けないのだ。
●自分の死について考えると、生き方が変わる
この辺りで止めておけば、中村仁一は医者として名医と称されるのだろうが、やはり臨済宗の人なのでより一歩進めることになる。患者たちに「生前葬」を行わせ、自分の死について考えさせるという運動を行っているのである。
これは臨済宗の医療バージョンと言った方がいい。人間は自分の命が永遠に続くものだと思っているからこそ、間違った生き方を平気でやってしまうのであり、自分の死について考えると、生き方が変わり、自然と正しい生き方をすることができるのである。
これは、
「生即死、死即生」
ということなのであって、「人間は死を覚悟して生き、精一杯生きればいい」という禅宗の教えであるのだ。患者だからといって病気に囚われているようではまだまだなのである。どうせ死ぬんだから死について考えれば、病気など消滅してしまうものなのである。
人間の致死率は「100%」である。誰もが死ぬ。死なない人間など1人もいない。この恐ろしい事実が解っていないからこそ、人間たちは愚かなことを仕出かしてしまうのである。この世に生まれた以上、真剣になって生きる。一生懸命になって生きる。病気にあれこれ悩むのではなく、「自分がこの生きている間に何をすべきか?」に悩むべきなのである。
この本は実に素晴らしい本だと思う。これがベストセラーになったということも頷ける。ただこの本は読者にそれなりの精神レベルがないと、この本の本当の良さが解らないと思う。俺の場合、医者の手で自分の父親が殺されてしまったので、この本の本当の良さが痛いほど解った。
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