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紫式部と源氏物語

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●「紫式部ってどういう人?」

 紫式部の『源氏物語』は日本文学を代表する文学作品だから、日本国民であるならこれを必ず読むべきであり、『源氏物語』の知識を教養として持っておかなければならない。『源氏物語』が解っていないと、その後に出て来る日本文学の作品の価値を理解することができなくなってしまうからだ。

 しかし紫式部や源氏物語は教養になっているがゆえに、子供が大きくなってくると、とんでもない質問をし始めることになる。

「紫式部ってどういう人?」

「『源氏物語』ってどんな内容?」

 こんな質問を受けて、正確に答えることのできる親などこの世にはいない。こういう質問は「してはならない質問」なのである。紫式部や『源氏物語』は余りにも有名だから、手短に説明することは不可能なのである。

 教養になってしまうと、思わぬ落とし穴が存在することになる。それはみんなが知っていると思い込んでしまって、実はみんなが何も知らなかったという現象が出て来てしまうことなのである。この「教養の陥穽」があるからこそ、紫式部は日本人女性の中で最も有名なのに、『源氏物語』は日本文学史の中で最も有名な作品なのに、そのことを正しく知る者たちが非常に少ないということになってしまったのである。

 今回紹介するのはこの本!

 増田繁夫著『評伝 紫式部 ー世俗執着と出家願望ー』(和泉書院)

  評伝紫式部[増田繁夫]

 増田繁夫は昭和10年に兵庫県に生まれた。国立の京都大学文学部卒業。東京大学卒ではないので、文章が実に読みにくい。しかも甲南大学や梅花女子大学や大阪市立大学や武庫川女子大学といったどうでもいいような大学で教鞭を取ったので、文学者として優れた経歴があるとは言えない。

 だが、『源氏物語』の研究に対しては生涯を捧げたと言ってもいいほどなので、それで今回、その功労を評価して合格点を与えたという程度の物である。研究を真摯にやってきたことは認めるが、その突っ込みの仕方が実に甘い。それだけでなく結論自体が間違っている。手厳しいようかもしれないが、紫式部のような超有名人の研究する時は余程覚悟を決めてやらないと、真実に辿り着くことはできないのである。

●紫式部の生い立ち

 紫式部は藤原為時の娘として生まれた。母親は藤原為信の娘である。兄に惟規、弟に惟通と定暹、それに姉が1人いた。この姉は長徳元年に死亡した。紫式部の生年は正確には不明なのだが、貞元元年(九七七)ではないかと増田繁夫は推定する。

 紫式部は子供の頃から利発で、父親が兄の惟規に漢籍を教えていたが、紫式部は兄よりも早くに暗記してしまい、「この娘が男の子であったならな~」と嘆いたと言われている。この兄とは3歳違いだったらしく、それで兄と遊びながら勉強していったのである。

 紫式部はどうも文学少女だったらしく、物語文学の作品を読み耽ったらしい。それだけでなく若い女性たちと物語文学を創作し合い、それを見せ合うという遊び方をしていた。これが後年、『源氏物語』の創作に活かされることになるのだが、紫式部の友達は誰も後世に残るような文学作品を作らなかった。

 紫式部の母親は若くして死んだらしく、父親の為時は後妻を娶り、娘をもう1人儲けている。藤原為時が越前守に任命された時に、この後妻が一緒に行ったらしい形跡がない。それよりも為時はしっかり者の紫式部を連れて行っているので、父親と娘の関係がどのようなものであったかがこれで解る。しかし赴任した越前では兄の惟規が死んでしまった。

 帰京すると紫式部は藤原宣孝と結婚し、娘の賢子を産んだ。この藤原宣孝は女性に優しくモテたらしいのだが、紫式部は藤原宣孝に他に女がいることを疑い、夫婦仲は余り良くなかった。この藤原宣孝は疫病の流行で死んでしまった。その後、紫式部は『源氏物語』を書き始め、その名声に着目した藤原道長ら娘の中宮彰子の宮廷女官に抜擢した。

●これを『源氏物語』に当て嵌めてみると?

 紫式部の人生で絶対に忘れてはならないのは、「父親と娘の関係」である。父親の為時は紫式部を可愛がったろうし、姉と兄が死ぬことでその寵愛は益々強まっていったのである。しかも母親が若くして死んでいるので、父親の為時と娘の紫式部は非常に親密な関係にあった。

 紫式部はファザコンといえばそうなるのだが、この「ファザコン」こそ『源氏物語』を解く鍵となる。

 『源氏物語』に於いて「紫の上」は紫式部のことであろう。となると「光源氏」は藤原為時ということになる。光源氏は少女であった紫の上を引き取って、自分好みの女性に育てていこうとするのだが、その中に恋愛も夫婦愛もない。あるのは親子愛だけなのである。

 「女三の宮」は藤原為時の後妻のことであろう。後妻はなぜだか不明ということになっている。物語の中で「女三の宮」が「光源氏」と結婚したのに、「柏木」と不倫して「薫」を生むことになるのだが、となると後妻は不倫して、誰かの子を産んだ可能性が出て来る。

 となると、定暹は前妻の子とされていたのだが、この定暹が怪しくなってくる。惟規と惟通は通字を使っているので、同腹の子であろう。しかし定暹は本名が伝わっていない。しかも出家後は消息が不明になってしまうのである。もしかしたら定暹は藤原為時の子ではなく、後妻が不義密通して生まれた不義の子であるかもしれないのだ。

 この仮説を補強するのが、紫式部は後妻が産んだ妹に対して和歌を贈っていないということだ。紫式部は死んだ姉には和歌を贈っているのだが、なぜだか妹には和歌を贈っていないのである。このことも紫式部と後妻の関係が良くなかったことを物語っている。

 紫式部は父親のことを愛していたが、成長するにつれて大人達のドロドロの愛欲劇を見せられることによって、少女である紫式部は死んでいったことであろう。紫式部は大人にならざるを得なかった。だから物語の中で紫の上が死ねば、光源氏も死ななければならなかった。光源氏は紫式部が作り出したもう1人の父親だったからだ。

●なぜ女性たちは『源氏物語』に熱狂するのか?

 『源氏物語』では光源氏が様々な女性たちに手を出すので、そのことに囚われてしまうと、この物語を根本から勘違いしてしまうことになる。『源氏物語』に於いて重要な物は「光源氏」と「紫の上」の関係なのであって、それが「女三の宮」によって崩されてしまう所なのである。

 なぜ女性たちが『源氏物語』に熱狂するのかといえば、これは女性の通過儀礼に関することを扱った物語だからだ。女性というのは少女の頃は父親のことが大好きで父親の言動になんの疑問も持たない。しかし自分が成長してくれば、父親に反抗することになり、父親の許を離れて行く。

 そして自分が他の男性と恋をし、セックスをしてしまえば、父親だって生身の男性であることに気付き、それに懊悩してしまうのである。自分が自立していくに当たって少女である自分は死なねばならない。それと同時に、自分が頭の中で描いていた父親像も死ななければならない。

 だから、女性が「紫の上」に感情移入できてしまえば、女性であるならどうしても熱狂してしまうのである。これは女性なら誰でも通過していかなければならないことだからだ。『源氏物語』に中毒性の物があるということは、既に平安時代に於いても解っていて、『更級日記』の作者である藤原孝標の娘はこれに熱中してしまっているのである。

 女性は自立していく過程で自分の頭の中にある父親像を破壊していかないと自立することは不可能なのである。自立することができなければ、様々な妄想を思い描いてしまう。現代ならハリウッドの映画やジャーニズや宝塚歌劇団が女性たちが好む妄想を提供してくれる。

 しかしそんな妄想を幾ら見たとしても自分が自立していくのは益々不可能になるのであって、最終的には自立することができないまま、この世で生きて行かなければならなくなるのである。自立を妨害する物は常に自分の心の中にあるから、その妨害する物を壊す際には激しい痛みが伴う。だがそれをやらないと自立していくことは不可能になってしまうのである。

●宇治十帖は書く必要性のない物

 『源氏物語』は光源氏が主人公でありながら、実は「紫の上」こそが本当の主人公である。だから「紫の上」が死んだ時点で、この物語は終わらなければならない。「紫の上」に子供がいれば話は別だが、「紫の上」に子供がいない以上、これ以上物語を書くのは無意味なのである。

 古来、「宇治十帖は本当に紫式部が書いたのか?」という議論が存在するのだが、これは読めばすぐに理解できる話なのである。宇治十帖は必要性のない物であって、宇治十帖からは話がガラリと変わってしまうのである。決定的な証拠は文体が違うのであって、紫式部は息をつく閑を与えないほどに重厚に書いて来るのだが、宇治十帖からはそれが全くなくなってしまうのである。

 宇治十帖は紫式部以外の誰かが書いたとしか言えない。しかもそれをやったのは1人ではなく、かなりの人数がやったと見るべきである。恐らく、『源氏物語』に人気が出て来てしまい、その続編を読みたいと思った連中が紫式部の許可なく書いてしまったのであろう。

 もしも宇治十帖を紫式部が書いたというのなら、紫式部はなんらかの脳疾患を発症して書いたということになる。当時の食事から考えてみると、植物性脂肪や動物性蛋白質が決定的に少ないので、頭脳労働をやっていた紫式部は脳疾患を発症する危険性は常にあったのである。

 与謝野晶子は「宇治十帖は紫式部の娘の賢子が書いたものだ」と主張したが、あながちその仮説は間違っていない。しかし瀬戸内寂聴はこの仮説を無視して、「紫式部は出家した後に宇治十帖を書いた」と主張した。この意見は完全に間違っている。

 紫式部は40歳頃に死んだらしいので、出家した後に宇治十帖を書く閑などなかった筈だからだ。紫式部は宮廷女官として勤めていて、在職中に死亡したか、退職後すぐになくなったか、そのどちらかと考えられているので、出家して僧になり、宇治十帖を書く時間などなかったのである。

●そして誰も『源氏物語』を乗り越えることができなかった

 紫式部は夫の死後、『源氏物語』の執筆を開始し、その文名を藤原道長に買われて宮廷女官になった。作家の仕事と宮廷女官の仕事の2つをやりながら、賢子を育てあげたのである。彼女の生き方は現代の我々が見ても立派だと評価できる生き方であろう。

 それなのに『評伝 紫式部』を書いた増田繁夫は「紫式部は敢えて言うなら常識の人であった」と結論づけてしまうのである。「なんでここまで紫式部のことを研究しながら、そういう結論が出て来るの?」と反論してしまいたくなる。宮廷女官の仕事は非常に忙しい物で、その仕事をやりながら物語を作るというのは普通の人では到底できないことなのである。宮廷女官は多数いたのに、物語を書いたのは紫式部だけなのである。

 紫式部がどんなに凄い人であったかは、『源氏物語』が登場して以降、これを超える作品が出て来なかったことでも解る。物語文学は『源氏物語』以降も書かれるのだが、平安時代が終わるとピタリと物語文学が消えてしまうのである。みんなが『源氏物語』に挑戦したのだが、誰もそれを乗り越えることが出来なかったのである。

 『源氏物語』の負の遺産は現代でも生き続けていて、『源氏物語』のために女性作家たちの大量死が発生してしまったのである。女性作家たちは大量に存在しているのに、誰も紫式部を乗り越えることができないのである。紫式部は当時に於いても突出した才能を持っていたし、その才能は現代に於いて充分通じるものなのである。

 紫式部は貴族階級の中でも藤原氏という名門に生まれた。しかし母親や姉や兄に先立たれ、結婚も夫が死んで、生活それ自体は不幸だった。だがその状況下の中で必死に働いたからこそ、『源氏物語』を作り、宮廷女官の仕事をしっかりと勤め上げたのである。現代女性は自分の不幸を社会のせいにしてしまうものだが、少しは紫式部のことを見習って欲しいものである。

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