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漱石の妻から見た夏目漱石

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●思春期だからこそ

 夏目漱石の小説には中学生や高校生の時なら読まれるのだが、高校を卒業してしまうと読まれなくなるという批判がある。これはちゃんとした理由があって、それは夏目漱石が幼少の頃、養子に出されたことがあるからなのである。

 人間は思春期を迎えると、自立するために親から離れて行こうとする。その時期は両親がいるような作家の小説よりも、両親のいない作家の小説の方が理解し易いということになる。だから養子に出されたことのある夏目漱石の小説はこの時期になら読まれるのである。

 しかし自分が大学生になってしまうと肉体的成長のピークを迎えることになるので、自立するか否かよりも、もっと世界の事をあれこれ考えるように成るので、それで夏目漱石の小説を卒業していってしまう。

 文学という物は年齢に関係なく読める物ではなく、年齢によって大きな変化を受ける代物であり、小学生なら児童文学、中高生なら青春文学、大人向けの普通の小説は大学生に成ってからとした方がいいのである。

 気を付けるべきは、小学生や中高生の時は充分な読解力がないために、その小説の中身をきちんと理解していないのに、「あの本は良かった~」と言ってしまう事だ。この手のバカは幾らでもいるからこそ、本当は大した小説ではないのに、高い評価を与えられてしまう物が出て来てしまうのである。

●人間不信、個人主義、そして則天去私

 夏目漱石は文豪だと言われるのだが、殆どの人たちが夏目漱石の小説をきちんと読み切っていない。正しく理解していないからこそ、文豪だと思い続けているのである。因みに夏目漱石が文豪というのは日本だけでしか通用しないのであって、海外に出せば夏目漱石なんて全く知られていない作家であるのだ。

 夏目漱石は首尾一貫して「人間不信」であり、人間不信という観点から見れば、処女作の『吾輩は猫である』も、『坊ちゃん』も、『こころ』も、『明暗』も全てその謎が解けるように成っている。人間不信が解らないからこそ、小説の表面上の話に騙されてしまうのである。

 なぜ夏目漱石が人間不信なのかといえば、実の親に捨てられ、養父母にも捨てられたという経験があったからであり、自分の親ですら信じていない人が、他の人たちを信じれる訳がない。ここまで人間不信の人は滅多にいないからこそ、夏目漱石の小説を読んでも良く理解できないのである。

 夏目漱石の「個人主義」は、この人間不信から生み出された物であり、人間を誰も信じていない以上、自分だけが頼りなのであって、他の人に頼ることなどしなくていい。ここまでドライに個人主義に徹した人はいなかったからこそ、夏目漱石には多くの弟子たちが付く事に成る。

 個人主義だと他人と理解し合う事は不可能であるがゆえに、それで夏目漱石はこの世で生きていく事に苦しむ事に成る。それで修善寺の大患を経験すると「則天去私」の境地に辿り着く。この則天去私は個人主義と矛盾するものではなく、個人主義を補完した物だと考えた方が解り易い。

●『漱石の妻』

 夏目漱石を研究する時、「夏目漱石は文豪である」というl先入観があるために、「夏目漱石は誰も信じていなかった」という事実を見抜ける者たちが非常に少ない。国文学者たちは結婚しているので、少なくとも妻子を信用しているからだ。

 このため国文学者たちが研究した物でいい物は余りない。国文学者たちの研究がこの有様だから、小説家が書く伝記小説だっていい物はない。しかし夏目漱石ではなく、夏目漱石の妻である夏目鏡子を主人公にすれば状況は一変することになる。

 鳥越碧著『漱石の妻』(講談社)という伝記小説があるのだが、これは伝記小説としては不合格なのだが、夏目漱石の人生をかなり巧く描いているという事では成功している。鳥越碧は夏目漱石の小説をきちんと読み切っている点は大いに評価していい。

 『漱石の妻』は鏡子の回想のシーンから始まるのだが、伝記小説に於いて回想のシーンから始まる伝記小説は下手糞な作家がやる典型例である。しかも「作者はちゃんとした恋愛や結婚をした事があるのか?」と訊きたくなるほど、恋愛や結婚に対してまともな考えを持っていない。

 しかし『漱石の妻』を読むと、夏目漱石の結婚生活が大体解るようになっている。夏目漱石は朝日新聞社の社員として生活を維持しながら、小説を書いていたのであり、だから処女作の『吾輩は猫である』以上の作品を作る事が出来なかった。

 小説家としては高い評価を受けたかもしれないが、家庭内では妻や子供たちに暴力を振う禄でもない男性であり、その漱石が妻のひたむきな献身と貢献を受けている内に、徐々にまともな既婚男性へと変化していった。

●『漱石の思い出』

 『漱石の妻』で納得がいかないのは、鏡子は夏目漱石の小説を理解し、正当な評価を与えていたという事である。それは絶対に有り得ない。鏡子は妊娠出産育児で忙しかったのであり、漱石の小説をじっくりと読むことができなかった。それに鏡子の性格と能力からいって、漱石の小説を云々論評するという事は無かった筈だからである。

 そこで夏目鏡子著『漱石の思い出』(文藝春秋社)を取り寄せ読んでみた所、これが実に面白い。夏目漱石の如何なる小説よりも、『漱石の思い出』の方が断然に面白いので、漱石の小説を読む前にこの本を読むと、夏目漱石の小説が実によく解るようになる。

 妻の証言からすると、夏目漱石は若い頃から精神病を患っていたのであり、妻自身が夏目漱石の精神病に気付くのは夏目漱石がロンドン留学を終えて帰国してからであり、これ以降、夏目漱石が死ぬまでその対応に追われることになる。 

 鏡子は朝寝坊であり、午前10時を過ぎてから起床するというような人だったので、それで早起きの夏目漱石とは生活習慣の違いから常に爆弾を抱えているようなものであった。しかしそれでも鏡子はとしてやるべきことをきちんとやっており、「鏡子あっての漱石」だったというのは、この本を読むと実に解る。

 夏目漱石の弟子たちは夏目漱石の一面しか見ていない。というか、晩年は精神病が悪化し、弟子たちに対しても悪態をついたのに、それでも夏目漱石を賞賛することをやめなかった。このために世間の人たちは決定的に誤解してしまったのである。

 夏目漱石と鏡子は夫婦喧嘩をしまくったかもしれないが、鏡子は夏目漱石の死後、子供たちに、

「色んな男の人たちを見てきたけど、あたしぁお父様が一番いいねぇ」

と言ったという。これほど深い愛情を持っていたのだから、やはり運命の出会いだったのである、

●漱石と鏡子の相性

  ここで漱石と鏡子の相性を占ってみようと思う。

①音相では相性が抜群に良い

 音相では、金之助は「妥協しない働き者」であり、鏡子は「良く動き回るちゃっかり者」であり、相性は抜群に良い。だから漱石は結婚後にイギリス留学を命じられたり、作家になって成功したりした。但しこの夫婦だと生活に落ち着きがなく、常に走り続けなければ成らない夫婦になってしまう、

 夏目漱石夫妻は二男五女に恵まれ、後に五女は死亡したが、それでも6人の子供たちが健康に育っていったことは絶対に忘れては成らない。現代の作家たちのように結婚もせず、子供もいない状態で小説を書いていたのではないのである。

②字画では相性が極端に悪い

 字画では、金之助が18画であり、鏡子が22画なので、相性は極端に悪い。漱石が家庭を犠牲にしてまで働こうとするのに、鏡子は家庭を大事にするので、それで衝突が絶えなかった。それでも漱石となると19画になるので、これは相性がよくなり、それで離婚するほどの物ではなくなってしまうのである。

 夏目漱石と鏡子の結婚は、結婚式の際に3つ組の盃が1つなかったり、初めての子を流産したり、度々泥棒に入られたりしたりと、結構、不幸が多発している。字画の相性の悪さを考えると、こういう事は起こって当然だといえる。

③字相に隠された秘密

 字相となると、この夫婦の思わぬ秘密が明らかになる。金之助に対して鏡子なので、鏡子は「鏡」という文字をもっているがゆえに、相手の姿を映し出すということをしてしまう。これが夏目漱石にとっては癪に障って仕様がなかったのである。

 例えば夏目漱石は個人主義者なのだが、鏡子は家族の中にどっぷりと浸かって生きている。夏目漱石は家の外なら個人主義者として生きても何の問題もないのだが、家の中では鏡子の姿に自分の姿が写ってしまうので、それで個人主義の欠点が暴露されてしまうのである。

 夏目漱石は合理的な事しか認めないのに、鏡子は占いを信じているので、合理性を追求してもどうにもならない部分、即ち「運」とかになってしまうと、鏡子の言っている方が正しいということになってしまう。

 こういったことが夏目漱石の怒りを爆発させてしまい、それで鏡子に暴力を振ってしまう。しかし鏡子は夫から暴力を振われても、夫を信じ抜いているので、それで更に怒る事に成る、だがこういう怒りは自分を傷つけてしまうので、だから胃潰瘍が悪化し、最終的にはそれで死亡してしまったのである。

●閑人の効用

 夏目漱石の小説は文豪が書いた名作と見るよりは、精神病患者が書いた作品を見るべきであって、その方が正しく理解することができる。実の親からも、養父母からも愛されることなく育ったという異常な生い立ちが、夏目漱石の精神を病気にさせてしまったのである。

 それなのになぜ日本文学史に於いて夏目漱石の小説が高い評価を受けるのかといえば、それは夏目漱石の小説が現代の仮名遣いで読める小説の最古の物なので、それで近代日本文学といえば夏目漱石の小説ということになってしまうからなのである。

 しかし現代的仮名遣いで書かれた小説は現在なら幾らでもあるのだから、じゃあなんで夏目漱石の小説だけが特別な評価を与えられてしまうのかということになる。それにはちゃんとした理由がある、それは夏目漱石が、

「閑人の効用」

を理解していたからなのである。

 もしも国民の全てが労働していたら、文学なんて物は絶対に生まれない。労働から解放されて閑な人がいるからこそ、文学の事を考え、人間の理想はどういう物であるかを指し示し、小説を書き上げていく事が出来る。

 小説家や文学者たちがいるからこそ、国民は精神的に豊かになっていくのであって、これは労働して富を生み出している人たちではなし得ない仕事なのである。どんなに経済大国であっても、文学のない国は、一見、人々は豊かに生活にしているように見えて、実は仮初の繁栄を謳歌しているにすぎないのだ。

 閑人だからこそ小説を作れるのだが、小説をヒットさせてしまえば、「小説家の職業化」が起こり、小説創造が労働に成ってしまう。事実、夏目漱石のすぐ後はそうなってしまい、だから大量のヒット作が出たというのに、夏目漱石の小説を超えることができなくなってしまったのである。

 最後にタマティーの俳句を一句。

「梅雨猫や 小説の中で 雨宿り」

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