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『ベルサイユのばら』を外国語に翻訳してみると

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●『LADY OSCAR』は誤訳
 
『ベルサイユのばら』を他国に先駆けて翻訳したのはイタリアで、イタリア語の『ベルサイユのばら』が出版されると、一大ブームを巻き起こしたという。芸術性の高い国民なので、日本で質の高い少女漫画が売れると、敏感に反応してくる。イタリア料理で日本でヒットするのも、国民レベルがかなり似通っているからだと思う。
 
 しかし翻訳に際して、題名を変えた。イタリア語では、
 
『LADY OSCAR]
 
としたのだが、これを再度日本語に翻訳すると、
『オスカル嬢』
となる。これは誤訳であり、原題の題名を変更するのは、翻訳した翻訳家がその作品の事を何も解っていない証拠である。
 
 だがこの誤訳は許される誤訳であり、なぜなら翻訳者がこの題名にしたのはアニメ版の『ベルサイユのばら』を見て翻訳したから、アニメ版ではオスカルを中心に描いている以上、『オスカル嬢』としても許される。誤訳は全てダメなのではなく、許される誤訳もあるのであって、そういう物であるなら誤訳ではあるが、それでもいいのである。
 
●バラは何輪?
 
 フランスはイタリアでのヒットを受けて翻訳を開始したのだが、その際、題名を、
 
『La Rose de Versailles』
 
にした。『ベルサイユのばら』をそのまま直訳したのだが、ここで問題となるのは、
「バラは何輪?」
という事なのである。
 
 日本語は単数形と複数形の区別が明確ではない。例えば、
「花が咲いた」
と書けば、その花は1輪ではなく、多数咲いているのであって、
「花々が咲いた」
とすると、それは複数形にする必要性があったからであり、必要性がないから、本当は複数なのに、それを省略するという事をやる。
 
 アニメ版は絶対に1輪であり、そうでなければオープニングにオスカルしか出て来ない事に関して説明がつかない。漫画の方は3輪であり、オスカルとアントワネットとフェルゼンという事に成る。漫画はそうしか読めないのだが、原作者の池田理代子は違う考えを持っていた。
 
 まず『ベルサイユのばら』という名は、この作品を作ろうと思った時に霊感で得られた物であり、別にバラは何輪あろうが別に構わない物であった。だから池田理代子は主人公を3人にし、他の主要な女性たちも花を持たせる事で、この物語を膨らましていった。それでデュ・バリー夫人やロザリーやジャンヌが準主役級の活躍をする事が出来たのである。
 
 だから単数形にしようが複数形にしようが、どちらも許される。
「ROSE」と来れば「オスカル」の事で、
「ROSES」と来ればベルサイユ宮殿の王侯貴族たち」と考えればいい。因みに、アメリカ版は、
 
『The Roses of Versailles』
 
であり、ヨーロッパでのヒットを受けて、原作を読んだ上で、正確な訳にした。
 
●『女強人 奥斯』?
 
 中国語では、香港がイギリス領だった時代に、
 
『女強人 奥斯』
 
という題名で出し、大ヒットした。この題名を再度日本語訳すると、
『女強人オスカル』
となり、全く別の漫画ではないかと思ってしまう。香港の人たちにはオスカルは「女強人」と映ったのであろう。「
 
 香港でも大ヒットを受けて、中国でも翻訳され、北京官話では、
 
『凡爾賽玫瑰』
 
という題名になった。多分、『凡爾賽玫瑰』で『ベルサイユのばら』なのだろう。「凡爾賽」が「ベルサイユ」の事で「玫瑰」が「バラ」の事だと推定できる。
「玫瑰」が解らないので、調べてみた所、
「玫瑰」は「マイカイ」と読み、
「玫瑰」とは「バラ科の落葉低木」
の事で、これはアニメ版のオープニングの際に、オルカルがバラの幹に絡まれる所からそう翻訳したのであろう。
 
 中国語というのは外国人の名前や外国の地名を正確に訳さないというのが実に良く解る。漢字は世界で一番出来のいい文字なのだが、それだけ出来がいい分、融通が利かず、それで正確に訳する事には全く使えないのである。ここいら辺りが中国文明の限界点なのである。
 
 翻訳のセンスとしては『凡爾賽玫瑰』より『女強人 奥斯』の方が断然にいい。香港が中国に併合されてから香港は没落していったが、その理由はこういう事も1つの要因なのであり、中国共産党の支配下に入ってしまうと、どうしてもセンスがガタ落ちに成ってしまうから、それで経済も文化もどんどんダメになっていくのだ。
 
 因みに俺だったら、
『奥斯娘々』
と中国語で訳したいね。『奥斯娘々』は「オウシーニャンニャン」と発音し、「オスカルお嬢様」という意味。道教には「天仙娘々」という女神様がいるので、中国でオスカルが愛されれば、「オスカル霊廟」も出来てしまったりするかも。
 
●作品解釈と解釈作品は違う
 
 外国語での翻訳を調べてみると、要は、
「アニメ版を見て翻訳したか?」
それとも、
「原作を見て翻訳をしたか?」
に二分する事が出来る。たとえ言語が変わっても、その作品に対する解釈は1つであり、他の解釈など出来ない。作品解釈は必ず1つである。でなければ国語の試験など出来ない。
 
 国語の勉強がよく出来なかった人たちは、
「作品の解釈は人それぞれあっていい」
と言い出して来るのだが、そんな事は絶対に有り得ないのだ。作者は或る特定の考えを持ってその作品を作り上げた以上、誰が読んだとしても解釈は1つなのである。作品に対する感想は人それぞれあっていい。しかし感想が多々あるからといって、解釈も多々あるとは思っては成らない。
 
「作品解釈」と「解釈作品」は全くの別物である。作品解釈はその作品を解釈した物であり、解釈作品とは原作を元に新たな作品を作る事であり、原作とは新しい作品は微妙に違って来る。『ベルサイユのばら』の場合、原作では週刊誌の連載が全82回であり、アニメ版では全40回しかなく、それで原作では主人公が3人なのに、アニメ版では主人公は1人になっているのである。
 
 日本国内だと誰もが同じ日本語を使っているので、あれこれ批判する事が出来てしまうが、外国人に見せれば、やはり作品解釈は皆同じなのであり、日本国内だけで異常な意見が出回る事を絶対に防がなければ成らない。この問題は日本の学校に於いてまともな国語教育が行われていないからこそ起こる問題なのであって、昭和憲法体制のために異常な状況下にいるという事を決して忘れては成らないのだ。
 

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