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徳について

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●徳とは何か?
 
「徳」とは「まっすぐな心で人生を歩む事」を言う。
  人間はまっすぐな心で人生を歩むからこそ、自分が発展していき、目標や目的を達成しえて、それで利益を獲得していく事が出来る。自分が利益を得ているのだから、徳化は周囲に及んで行き、それを有徳者がいれば徳を持った者たちが続出してくる事に成る。
 
 徳は人間がこの世で必要不可欠な物なのに、なんで徳の事があれこれ論じられるのかといえば、多くの人々たちに徳がなく、心は捻くれ、まともに人生を歩んでいないからである。自分の人生を発展させなければ成らないのに停滞していれば、腐敗し堕落していくのは当然であり、なんの利益も得られないどころか損出だけが大きくなっていく。
 
 徳には「先天的」な物と「後天的」な物とがある。先天的な物は前世で徳を積んだからこそ生まれながらにして得られる物であり、徳があるからこそ健康に生まれ、順調に育ってくる事に成る。逆に前世で罪を犯した人は不幸な生まれ方をし、徳がないために普通の人なら追わなくていい不幸を背負ってしまったりする。
 
 後天的な物は「親の育て方」や「学校や大学での教育」、そして「本人の自助努力」で得られる物である。人間の人格は6歳までの育て方で決まってしまうから、親の役割というのは想像以上に重要であり、人間は親なくして健全な人格を持つ事など出来ない。孤児院で育ってしまうと、自分がこの世に生きている事に不安を覚えてしまうが、それは母性愛や父性愛がない状態で育ってしまったからなのである。
 
 学力という物は学校や大学がないとなかなか伸びていかないから、それで学校や大学での教育も必要に成って来る。しかし教員たちに教員としての教育がなさfれていないと、教員によって生徒たちが殺されてしまったりするから注意が必要である。学校や大学は飽くまでも家族のやっている事を補完する機能しかないのであって、家族を蔑ろにするような事をやってしまいうと、学校や大学で生徒や学生たちが殺される事に成る。
 
●善徳と悪徳
 
 最終学歴を終えてしまえば、後は本人の自助努力次第という事に成るのだが、徳には「善徳」と「悪徳」があり、自分が正しい事をやれば善徳を得られるが、自分が間違った事をやってしまえば悪徳を得てしまう。善徳を獲得する事を功徳を積む事になるが、悪徳を獲得してしまえば、自分の持っている徳が急速に減少していく事に成る。
 
 人間には「自由意志」があるのであって、善悪を選択するのは常に自分なのであり、善悪のどちらかを選択した事によって如何なる結果が発生したとしても、それは自分が負うべきものなのである。だから責任感のある人物は善を選択し易いが、他人に責任をなすりつけようとしている人は悪を選択し易い。
 
 なぜ洗脳が非難されるのかといえば、洗脳は人間の自由意志を奪ってしまうがために、洗脳された状態では善悪の判断が完全におかしく成ってしまうからだ。それで社会主義やフェミニズムや無政府主義に洗脳されてしまうと、自分は正しいと思って判断したのに、完全に間違った事をやってしまうのである。
 
 人間の本性に関して、性善説と性悪説の争いがあるが、性善説は間違いであり、性悪説こそ正しい。人間は生まれながらにして天使ではない。人間を放置しておけば誰でも悪しき事をやってしまう。人間が性悪な動物だからこそ「宗教」があり、「道徳」があり、「法令」という物があるのだ。
 
 悪い事は子供の内にやりまくっておいた方がいい。子供の時なら悪事を働いても親に怒られるだけで済むからだ。しかし大人になったらもう悪事から手を引いて、良い事を出来るだけ多くやって行かなければ成らない。子供の頃に悪事をやっていないと、大人になって悪事をやってしまい、それで身の破滅に成ってしまうのである。
 
 
●陽徳と陰徳
 
 善徳とには「陽徳」と「陰徳」とに分ける事が出来る。陽徳というのは、仕事や結婚とかで成功して得られる物である。陰徳という物は先祖祭祀とか宗教活動とか慈善活動とか、自分のためではなく誰かのために何かをする事によって得られる物である。陽徳と陰徳の両方が必要なのであって、どちから1つあればいいという物ではない。
 
 確かに仕事で成功する事は大切な事である。しかし仕事ばかりやっていては心身がおかしく成ってしまう事であろう。結婚で成功する事は大切な事である。だが家庭の中に閉じ籠っては非常に危険な事に成ってしまう事であろう。陽徳は陰徳があればこそ得られる物だから、陰徳の存在を無視しては成らないのだ。
 
 如何なる人間も先祖がいればこそこの世に生まれる事が出来たのであって、だったら先祖祭祀をきちんとすべきであろう。この現実世界は神が動かしているのだから、だったら宗教活動に励んだ方がいい。この世に困っている人は必ずいるのだから、慈善活動をする事で慈善を施していく事が必要に成って来る。
 
 陽徳と陰徳はバランスが大切なのであり、多くの人たちは8割方陽徳に注ぎ、残りに2割を陰徳の方に注ぐ事に成る。しかし神に選ばれてしまった人は陰徳の方に7割か8割方のエネルギーを注ぎ、陽徳には2割か3割程度しか注がなくなってしまう。不思議な事に半々というのはないのであって、必ずアンバランスになるのだ。
 
 陰徳を積めば必ず朗報ありというが、陽徳を積めば必ずお知らせという物がある。陽徳にし陰徳にしろ徳を積んでいる事には変わりないのであって、それで不幸を事前に察知できるし、不幸を幸福に変えて行く事が出来るように成る。しかし徳を積んでいないと、なんのお知らせも得る事が出来ず、それで突如としてとんでもない不幸に見舞われる事に成るのだ。
 
●無心による徳
 
 徳を積む場合、自分に意志があって行うのだが、徳の中には「無心による徳」という物も存在するから、「有心による徳」だけでは無心による徳を得る事が出来ない。自分に意志があるという事は自分になんらかの欲がある。しかしその欲こそが自分の心を不自由にしてしまい、それでいい結果を出せないという事に成ってしまう。
 
 人間の欲望には「無心」になりたいという特殊な欲望があるという事を知っておくべきであろう。人間は自我があるからこそ自分の欲する利益を得て行く事が出来るのだが、しかしその自我こそが自分の限界を作り出してしまうから、それで無心に成る事でその限界を突破していくのである。
 
 この世には道徳的にな立派な事ばかりしているのに、なぜだか人々から敬遠されてしまう人がいたりする。ビジネスで成功して億万長者になったのに人々から嫌われてしまう人がいたりする。結婚して幸せな家庭を築き上げたのに全く評価されない人がいたりする。これら人たちは全て「有心による徳」はあっても「無心による徳」がないから、それで幾ら徳を積んでも「これはおかしいぞ」と思ってしまうのである。
 
 だから人間は1人で生きては成らない。必ず結婚して赤ちゃんを産み、子供たちを育てて行く事で無心による徳に触れなければならないのだ。乳幼児は無心で遊ぶから、それを見る事で自分の自我のために雁字搦めになってしまった自分を解放していかなければ成らないのである。
 
 無心になれるもう1つの方法は「宗教」であり、宗教活動に打ち込む事で無心になり、それで自分をより高い精神レベルへと持っていく事が出来るように成る。尤も無心になるためには、過酷な修学修行が必要なのだが、宗教の中には「中道」を唱える事で、過酷な事をしない宗教もあるので、そういう宗教では無心になるのは不可能になってしまうから注意しなければならないのだ。

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