●唱題はなんの役にも立たない
俺は子供の頃から「日蓮贔屓」で、日蓮宗には期待していたのだが。仏教を研究して解った事は、「唱題」は仏教に於いてなんの役にも立たないという事である。唱題は、
「南無妙法蓮華経」
と唱える事なのだが、原始仏教の段階では、この唱題という物が存在しない。唱題は飽くまでも大乗仏教が起ってきたから出来た物に過ぎない。
仏教で帰依しなければならないのは「三宝」であり、三宝とは「釈迦」「法」「サンガ」の3つを指す。だから法華経がどんなに素晴らしい経典であっても、それに帰依しているようではアウトなのである。今まで唱題が念仏ほど問題に成らなかったのは、法華経は釈迦を奉っているし、法もサンガも尊重しているので、それで唱題した所で、必ずしも仏教の教義に違反するという訳ではないからだ。
それなのに、俺が仏教を研究していく過程で、日蓮宗の僧侶や信者たちが書いた物で、一流の書物は1つもなかった。なんでこんな現象が起こってしまったのかといえば、日蓮宗では法華経を最高経典と過信する余りに、釈迦の教えが一体なんであるかを研究していこうとする意欲が全くないからである。
如何なる宗教にも「教義」と「教義史」という物がある。仏教のように人工宗教の場合、教義に於いて最も重要なのは、「釈迦の教えはなんであるか?」なのであって、それが解らなければどうにもならない。しかし釈迦の教えだけが仏教の教えではなく、釈迦の死後、仏教の教義は発展していくのであって、それを研究していく事もまた大事な研究なのである。
古代日本に伝来したきたのは飽くまでも大乗仏教なのであって、原始仏教ではない。しかも日本の仏教は鎌倉時代に鎌倉仏教が出て来て、「一行選択」という事を行って、念仏とか坐禅とか唱題とかに特化してしまった。だからどの宗派も大乗仏教の中でもほんの少しの事をしか理解していないし、況してや原始仏教の事など全然理解していないのである。
●日蓮宗の最大の問題点
浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀如来を信仰しているので、仏教を研究しても必ず嘘ついてくるという特徴がある。もしも仏教の教義をきちんと理解したのなら、どうしても棄教しなければならなくなるから、それが出来ないというのなら、嘘をつく事で自分の宗教心を誤魔化す事に成る。
だから浄土宗や浄土真宗の人たちが書いた書物は注意して読まなければ成らないのだが、しかし日蓮宗の人たちが書いた書物は独特の乗りがあって、途中で読むのを放棄したくなるほどの酷い。俺はなんでこんな書き方をするのか長らく解らなかったのだが、日蓮宗には「三証」という物があって、これこそが読むに堪えないほどの書物にしてしまう最大の原因であるというのが解った。
三証とは「文証」「理証」「現証」の事で、文証とはその主張が仏教的に正しいかどうか経典や論文によって証明する事を言い、理証とはその主張が理論によって仏教的に正しい事を証明する事を言い、現証とはその主張が現実世界に於いて仏教的に正しい事を証明する事を言う。
一見、ご尤もな論法だと思うのが、日蓮宗では三証の内、現証を最も重視するので、それで研究がおかしな方向に突き進んでしまう事に成る。学問の研究では現実を捨象する物なのであって、現実的に正しいか否かを基準にしていれば、研究それ自体ができなく成ってしまうのは当然の事なのである。
三証を学問でやれば、必ず捻じ曲がった結論しか出て来ない。この事に例外は一切ない。解り易い例を挙げれば、福沢諭吉が実学の尊重を唱え、それで慶應義塾大学を作ったのだが、この大学からはまともな学術書も学術論文も一切出て来ない。なぜなら学問には実学と虚学があり、虚学こそが主であり、実学は虚学があれば自然と出て来る物だからである。
●大乗仏教は仏教ルネッサンス
原始仏教は飽くまでも僧侶たちの宗教であり、小乗仏教になって僧侶たちと信者たちの宗教になり、そして大乗仏教によって菩薩たちの宗教へと発展していった。大乗仏教では僧侶と信者との身分格差が解消され、全員「菩薩」であるという事で平等な物に成った。菩薩とは「解脱が約束されている求道者」の事であり、修行に取り組んで行けば、必ず解脱できると考えたのである。
しかし大乗仏教は小乗仏教を完全否定したのではなく、小乗仏教的要素を大量に取り入れる事で、新しい宗教運動としての体裁を整えた。だから大乗仏教は教義的には僧侶という出家者たちが存在しない筈なのに僧侶たちが存在してしまい、それで身分格差を完全に解消するという事が出来なく成ってしまったのである。
原始仏教に於いて、釈迦は出家修行者たちである沙門たちを自分の教団に入会させ、釈迦を教祖を仰がせつつも、僧侶たちはみな平等であるとした。この平等こそ原始仏教を急速に拡大させた要因であったが、とはいっても、その繁栄は釈迦の死後100年で終わってしまい、小乗仏教に成ると身分差別が激しい物に成ってしまった。
大乗仏教はそういう小乗仏教に対して反対して登場してきたのであって、仏教徒たちの平等を再確認する事で、新たなエネルギーを仏教に吹き込んだのである。確かに小乗仏教は原始仏教の教義や戒律を伝えている。だが肝腎な物が抜け落ちているのであって、それゆえ大乗仏教は小乗仏教に異を唱えたのである。
大乗仏教は「仏教ルネッサンス」なのであって、この事が解っていないと、大乗仏教を正しく理解していく事は出来ない。もしも大乗仏教の主張を貫徹しようとするなら、僧侶たちは廃止されるべきなのである。実を言うとこれをやったのが仏教系新興宗教団体であり、「在家仏教」を唱えて、既成仏教を否定したのだ。
●なぜ在家仏教は成功するのか?
在家仏教の殆どが日蓮宗系であるというのは決して偶然ではない。日蓮宗には三証があるので、在家仏教の方は現証を重んじて布教していけば、自然と大量の改宗者たちを獲得する事が出来てしまう。三証は飽くまでも布教で使える物であって、日蓮宗のように既に布教に重点を置かなく成れば、おかしな研究しかしない事に成ってしまい、それで信者たちを喪失して行ってしまうのである。
教団に僧侶たちがいないのなら、その分、人件費を安くする事が出来、信者たちは少ない経済的負担で宗教活動を行っていく事が出来る。日蓮宗でも明治維新以降は、浄土真宗の悪影響を受けて、僧侶たちは出家したと言いながら結婚して妻子を持って居るので、信者たちは僧侶とその妻子の生活費を負担しなければ成らない。だったら脱会して、在家仏教の教団に入会した方が良いという事に成る。
しかし三証は学問の研究にとって有害に成るので、それで在家仏教の教団はどこも大学を作っていない。唯一の例外が創価学会であり、創価学会は創価大学を作る事によって、学問研究を行える道を開いた。尤も創価学会自体、三証の教義を捨てていないので、創価大学の教授たちが「三証は学問研究にとって有害である」と気づかない限り、優れた研究を
行う事は出来ないであろう。
釈迦は出家する事で、世俗の生活を捨ててしまったので、それで仏教の教義を作り出して行く事が出来た。学問でも学者たちが自分の生活の事を捨象するからこそ、まともな研究成果を生み出して行く事が出来るのである。実を言うと、僧侶たちのやっている事と、学者たちのやっている事には共通項があるのであって、だから学者たちの内、仏教徒である者たちの比率は高いのだ。
だが日本の仏教は原始仏教からも大乗仏教からも遠く懸け離れてしまった物であるので、学問研究の邪魔になる教義を切り捨てていかないと、どうしても自分の信仰のためにまともな研究が出来なくなってしまうのである。日本の学問が振るわない原因は、釈迦の教えを解っていないのに、仏教を信仰している事にあると言っていい。
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