●騙され続けた仏教史
日本は欽明天皇の御世に仏教が伝来している。日本人は1500年もの間、仏教に帰依し続けたわけである。しかし日本人が仏教のことをきちんと理解しているとは言い難い。なぜなら日本が受け入れたのは仏教の中でも「大乗仏教」であって、仏教の全部ではないからだ。
大乗仏教は釈迦の教えとは一切関係ない。より明言してしまえば、大乗仏教は仏教ではない。仏教史の中で間違った思想が入り込み、それによって仏教が歪んでしまったのである。この考え方を「大乗非仏説」という。
仏教とは釈迦の教えを基本とする宗教である。
仏教で何か問題があるなら、釈迦の教えに立ち返るべきなのである。これをやらないからこそ、仏教は嘘だらけになるのである。釈迦は人間には煩悩があると指摘し、その煩悩からの解脱を説いたのである。
だから仏教に帰依したのなら、適正な教育を受ければ、如何なる信者であったとしても解脱できるようにしなければならない。もしも仏教教団が信者たちを解脱させないのなら、それは「宗教的詐欺」というべきものであって、信者たちから徴収した資金を全額返還すべきなのである。
ところが実際の仏教教団ではそんなことなどしない。信者たちは放置されたままだし、僧侶は煩悩まみれである。仏教教団の中で誰一人釈迦の教えを理解するものはない。これほどバカげたものはないのだ。
この仏教の隠された歴史を暴露した本が、副島隆彦著『隠された歴史』(PHP研究所)である。この本は仏教をきちんと研究した本ではないが、問題提起するには優れている本である。日本の仏教では、僧侶や学者たちが仏教に関して嘘をついてくる以上、素人による仏教研究が欠かせないのだ。
![隠された歴史]()
●宗教革命であった大乗仏教の誕生
仏教はゴータマ・シッダルタが解脱した瞬間から始まる。バラモン教では人間は輪廻転生すると考えられており、釈迦は解脱することによって、輪廻転生することがなくなり、「永遠の死」を実現できると説いたのである。
その当時の釈迦の教えが解る教典は、
中村元訳『ブッタのことば(スッタニパータ)』(岩波書店)
中村元訳『ブッタの真理のことば・感興のことば(ダンマパーダ)』(岩波書店) ※所謂『法句経』のこと。
釈迦の教えが解るのは、このたった二冊の経典しかないということである。残りの仏教経典は全部、後になってから捏造したものなのである。
仏教はバラモン教の異端の宗派として始まったのであり、原始仏教の段階では細々としたものであったのである。しかし仏教教団の組織が整い、小乗仏教が成立すると、仏教はバラモン教に対して対抗できる宗教へと発展していったのである。
ところが仏教教団内部でも小乗仏教への批判が起こってくる。組織化されればされるほど、解脱が遠のいていくからだ。釈迦は仏教寺院の中で解脱したのははく、川の畔で解脱したのである。そういう原点回帰運動が大乗仏教を生み出したのである。
大乗仏教は今までの仏教史の中で決定的に違う所がある。それは「民族宗教からの解放」を偶然にも達成してしまったということなのである。今までの仏教はインド人の内部に留まっていたのに、僧侶たちは新天地を求めて異民族に対しても布教するようになったのである。
大乗仏教の誕生は「宗教革命」であったのである。それまでの宗教は全部「民族宗教」なのであって、必ず民族の内部に留まるのである。異民族に対して布教するという考えを絶対に持たないのである。それゆえ大乗仏教が誕生すると、僧侶たちは全世界に向けて布教しまくり、仏教の勢力は爆発的な勢いで広がっていったのである。
●キリスト教の創設とキリスト教のインターセプト
大乗仏教の勢力はイスラエルの地にまで及び、ユダヤ教徒たちからエッセネ派と呼ばれる宗教団体を作り出したのである。この宗教団体は出家した僧侶たちと、それを支える一般信者たちからなるのであって、これぞまさしく大乗仏教の典型例なのである。ユダヤ教は家族を重んじるので、出家という概念は絶対に生み出せないのである。
このエッセネ派からイエスは出て来たのであり、ということは、イエスは仏教徒だったのである。イエスの言葉は『新約聖書』に載っているが、これをキリスト教の教えだと見るから解らなくなるのであって、仏教を理解した上で、イエスの言葉を読めば、「コイツは仏教徒だ!」ということが解るものなのである。
ローマカトリック教会はイエスが仏教徒であったという事実を執拗なまでに消し去ろうとしたのである。そうしないとキリスト教の独立を果たすことができないからだ。イエスの遺物である「聖骸布」も厳重な管理下にあるのである。仏教を知っている者なら、聖骸布は僧侶が纏う「袈裟」以外の何物でもないということが解るものなのである。
キリスト教はローマ帝国から宗教弾圧を受けたために、逆に大発展を遂げてしまうという「歴史の逆説」が起こったのである。ローマカトリック教会はキリスト教をローマ帝国の国教にするに当たって、異端となる宗派に対して宗教弾圧をし、パウロ主義に基づいてキリスト教を再編成していったのである。
では、純粋なキリスト教はどこに行ったのかといえば、ローマ帝国を脱出して、メソポミアへ行き、そしてインドへと到達したのである。なんでこんな現象が起こったのかいえば、イエスが生きていたからなのであり、イエスは布教のためにインドまで行ったからなのである。
この宗派は「トマス派」と呼ばれることになる。仏教もキリスト教も根は一緒なのである。このためトマス派は仏教と融合し、仏教の形を借りながら宗教活動をするようになったのである。この大乗仏教に於けるキリスト教のインターセプトが起こった後に、龍樹が出て来るのである。
西暦150年に、第四回仏典結集が行なわれるのだが、これ以降、大乗仏教に於いて大乗仏教理論が構築されていくのである。龍樹は西暦150年から250年まで生きたとされるのだが、この龍樹が『中論』『大智度論』を書き、大乗仏教理論の中核思想を作り上げていくのである。
●大乗仏教のアンチョコ
問題は「この龍樹なる人物は一体何者なのか?」ということなのである。龍樹は生粋の仏教徒ではない。バラモン教徒出身の僧侶なのである。確かに彼の複雑な思想展開はバラモン教徒でなければ絶対に出来ないものなのである。
では彼はなんで既存の小乗仏教とは異なる複雑な教義を作ったのか? それは仏教にキリスト教が流入し、その再統合を求められたからではないか? そう考えると、この時期に難解な教典が出て来た理由の説明がつくのである。
「じゃあ、そんな証拠はあるのか!?」と詰問されてしまうが、実はある! 大乗仏教の仏教教団は『新約聖書』をアンチョコにしていたのである。日本の浄土真宗には『世尊布施論』を宝物として保管しているのである。これはアリウス派の漢訳『聖書』なのである。
大乗仏教は仏教が純粋な形で発展してきた結果、生まれたものではないのだ。仏教教団内部の事情で僧侶たちが外に飛び出してしまったと同時に、バラモン教やキリスト教が流入し、仏教を大いに歪めてしまったのである。
大乗仏教は釈迦の教えの根本である「煩悩からの解脱」が消えてしまっているのだ。「宗教によって人々を救済する」ということを教えの根本にしてしまったのである。これは明らかに換骨奪胎であって、これでは仏教が仏教でなくなってしまうのである。
●『法華経』の正体
大乗仏教に於いて『法華経』が最高教典である。日本が受け入れた仏教jはこれであり、日本に於いても『法華経』は仏教の最高教典である。それなのに、このことをきちんと理解できていない者たちが多すぎるのだ。これが判っていないと大乗仏教も日本の仏教も理解できないということになってしまうのである。
『法華経』では、一切の衆生は菩薩になる可能性を秘めているとし、仏教信者たちを菩薩行に駆り立てるのではあるが、原始仏教や小乗仏教が持っていた「煩悩からの解脱」が完全になくなっているのである。
仏教というのは、煩悩から解脱し、仏に成るための思想なのである。
だからそれが可能にならないのなら、それは仏教ではないのだ。自分がどんなに信仰をやっても菩薩止まりであるなら、それは無意味なのである。『法華経』は大乗仏教の最高教典であったとしても、仏教の教義を完全に歪めたものなのである。
『法華経』は仏教に於いて教義に関する教典ではないのである。寧ろ「布教のために作られた教典」なのであって、『法華経』に取り付かれてしまえば、自動的に布教していくようになっているのである。だから『法華経』を教典にする仏教教団は盛んに布教してくるのである。
『法華経』がキリスト教の影響下で作られたということは充分に仮設として立たせることができる。大乗仏教は盛んに布教する宗派なのであって、そこに大乗仏教によって生み出され、大乗仏教以上に宣教に盛んな宗教が入り込めば、『法華経』のような教典が生まれるのである。
●弥勒菩薩はイエス本人?
大乗仏教に於いてキリスト教の影響があるとはっきりと解るのは「弥勒菩薩」の存在である。弥勒菩薩は兜率天に居て、仏滅後五十六億七千万年に弥勒菩薩は地上に降りてきて、人々を救済するというのである。
どこかで聞いたような話である。
恐らくこれは「イエスの再臨」を元ネタにして作ったに違いない。原始仏教でも小乗仏教でもこういう考え方はないからだ。仏教は基本的に自力救済なのであって、誰かに救済される思想ではないのである。弥勒菩薩の思想は他力救済である以上、余所から入り込んだものだと見るべきなのである。
弥勒菩薩本人は釈迦が生きていた時に実在していた人物である。サンスクリット語では「マイトレーヤ」という名前を持つ者である。これは『阿含経』に記載されているので、実在したと看做していいのだ。問題はこの弥勒菩薩が後世に於いて大いに捏造されたことなのである。
弥勒菩薩の存在を変えてしまったのは、『弥勒三部経』の出現である。『弥勒菩薩上生兜率天経』『弥勒下生経』『弥勒大成仏経』が『弥勒三部経』である。これが作られてから弥勒信仰が広まっていったのである。
弥勒信仰はインドではなく、中国で発達したことを忘れてはならない。中国にはキリスト教のネストリオス派(景教)が到達しており、中国に於けるキリスト教が衰退化すると同時に、弥勒信仰が起こってきているのである。
●阿弥陀如来はマグダラのマリア?
大乗仏教の弥勒信仰をより推し進めたのが阿弥陀如来である。阿弥陀如来は菩薩ではなく如来になっていることに注目したい。階級が上なのである。法華信仰や弥勒信仰では飽き足らなかった人たちが阿弥陀信仰をし始めたと考えるべきなのである。
問題は「この阿弥陀如来は一体誰?」ということなのである。
阿弥陀如来なる人物は、釈迦が生きていた時代には存在していない。後世に於いて捏造された人物なのである。阿弥陀はサンスクリット語で「アミターパ」と言い、「無限の光を持つ者」という意味である。だから個人名ではないのである。何かを象徴した名前なのである。
ズバリ言おう。阿弥陀如来はイランの神様である。ゾロアスター教の主神「アフラ・マズダー」の子に「「アルムタート」がいるのだが、この神様こそ、阿弥陀如来の正体なのである。「アミターバ」と「アルムタート」は言語学的に非常に近い言葉だからだ。アルムタートは「不死」という意味で、だからこそ人々は阿弥陀如来の力を借りて往生を願うのである。
問題は「阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩の三点セットで祀られる」ということなのである。しかし観音菩薩と勢至菩薩の仏像は殆ど同じなのである。ということは、この両者は元々同一人物であった可能性が高いのである。観音菩薩の正体は仏教学で既に解っている。「アフラ・マズダー」の長女の「アナーヒター」であるのだ。
とするなら、大乗仏教にゾロアスター教が流入したということになる。
しかし問題はそう簡単にはいかない。阿弥陀如来と観音菩薩は何か違う理由があって、こういう形になったと考えるべきなのである。恐らく、阿弥陀如来はイエスであり、観音菩薩はマグダラのマリアであるのだ。
近代以降、浄土真宗の教義とキリスト教の教義の類似性が指摘されていたが、浄土教それ自体、キリスト教から生まれたから教義が似てくるのは当然のことなのである。浄土真宗はキリスト教のパクリだと解れば、全ての謎はとけていくのだ。
●禅宗というアンチテーゼ
大乗仏教は冷静に考えれば非常にバカらしい宗派である。新たな如来や菩薩が生まれる度に、釈迦が説いた教えから離れていくのである。かといって大乗仏教を信仰する人々は衆生を救済しようと真剣になっているから、その勢いが止まらないのである。
しかし大乗仏教はその内部から、大乗仏教それ自体を否定する宗派が現れてきた。それが「禅宗」である。禅宗は衆生を救済することは無理だと諦めた宗派なのである。だから僧侶が修行に励み、自分だけが救済されようという考えを持つのである。
考えてみれば、臨済宗も曹洞宗も慈善活動をやらない。葬式の費用も一番高い。観光で有名な仏教寺院を訪れようものなら高額の拝観料を取られる。信者たちを教化することに重点を置いていない。或る意味、とんでもない宗派なのである。
だが、禅宗は「大人の思想」なのである。僧侶たちがどんなことをしても、衆生を救済することなんて出来ない。だったら僧侶である自分たちだけが必死になって修行に励んだ方が、仏教は発展していくものだと考えるのである。
事実、禅宗の仏教寺院は日本全国どこでもある。それだけの大量の仏教寺院を建て、経営できるだけの経済基盤があるということなのである。禅宗が強いと経済が発展するのである。しかも禅宗が強い地域は必ず文化が発展する。僧侶たちの存在が衆生の文化レベルを引き上げてしまうのである。
●「救済を求める欲望」と「救済を求めない思想」
釈迦個人は自分の教えが世界中に広まることなど想像していなかったであろう。しかし世間の人々の救済を求める欲望が仏教を大いに発展させてしまったのである。その過程で仏教自体が捻じ曲がってしまったのである。
その一方で、僧侶たちは衆生が救済されない事実を目の当たりにし、衆生を救済しないという禅宗を生み出したのである。禅宗は人間が持つエゴイズムの慣れの果てなのであって、そうやってドライになって世間を見ることも大事なのである。
仏教史を調べていくと、衆生が求めた救済はなかったのである。特に大乗仏教になるとこれがより強化されたのである。大乗仏教の信者たちは衆生を救済しようと躍起になっているが、まさに「歴史の逆説」が起こってしまったのである。
仏教的な救済を受けたいのなら、釈迦が説いた教えに帰るべきなのである。煩悩から解脱してしまえば、仏教的な救済を受けることが可能になるのである。法華信仰に耽ったり、弥勒信仰を信じたり、阿弥陀信仰をやるのは、どれも個々としては立派かもしれない。しかしそういう信仰を幾らやっても救済を受けることはないのである。
人間はどんなに時代が変わっても救済を求めるものなのである。それを教団が如何にシステム化していくかが問題なのである。もしも教団がそれを整備しないと、自力救済を殊更に強調する人たちが出てきてしまうのである。こうなってしまうと、「自力だけでの救済は果たして可能か?」という新たな問題が発生してきてしまうのである。