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渡辺和子さんって、厳しい人だね

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●読書感想の違い

 修道女の渡辺和子がテレビに出ていたのをうちの母親が見、どうも彼女のことが気になったらしく、それで、

「渡辺和子さんの本はないの?」

と訊かれたので、それで渡辺和子のベストセラーになった本『置かれた場所で咲きなさい』を貸してあげた。

 しかし一向に返って来ず、うちの母親はなんとあの本を1週間かけて読みやがった。俺なら10分程度で読み終わる本を、よくもそこまで長々と読むことができるものだ。うちの母親は読書に慣れていないし、しかも老眼のため読書スピードが恐ろしいまでに遅い。

 まあ、そこまで時間をかけて読んだのなら、さぞかし熟読したのだと俺は思い、

「どうだった、あの本?」

と訊いてみた。俺はあの本を読んで、他の自己啓発書から美辞麗句をパクり、それを彼女なりに解釈して書いた物であると解っていたので、うちの母親の読解力を試してみたのである。

 ところが母親の回答は意外な物であり、

「渡辺和子さんって、厳しい人だね」

と答えてきた。俺はその答えを聞いて、

「え~ッ!」

と驚いてしまった。なぜなら渡辺和子が厳しい人だなんて全く考えてもいなかったからだ。事実、修道女になっている彼女の姿を見れば、実に優しそうな顔をしているのであって、その彼女から厳しさを見つけ出すのは至難の業だった。

 俺は母親に、

「なんでそう思う?」

と質問したのだが、母親の答えは実に曖昧で、

「なんとなく」

としか答えなかった。俺よりもうちの母親の方が渡辺和子の年齢に遥かに近いので、それで人生経験の豊富さからそれを見破ったのであろう。

●無条件の愛の裏にある激しい憎悪

 俺が「渡辺和子は厳しい人である」と解ったのは、彼女の『面倒だから、しよう』(幻冬舎)を読んだ時であった。この本の中に、

<「汝の敵を愛する」ことの意味>

という節がある。彼女は修道女になってから、「2・26事件で自分の父親を暗殺した将兵たちのことを怨んでいますか?」とよく訊かれたのだが、その質問には、

「いいえ。あの方たちにはあの方たちなりの大義名分があったので、怨んでいません」

と答えていた。ところが修道女になってから20年も経った頃、テレビ局の番組収録で、2・26事件で自分の父親を殺した兵士と再開してしまったのである。

 テレビ局の人は気を利かして珈琲を彼女に与えたのだが、彼女はショックの余りその珈琲が飲めず、

「自分は、本当は心から許していないかもしれない」

と思い、キリスト教の教えである「汝の敵を愛せよ」を頭では理解しても、実行することは難しいことを知ったという。

 俺はこの話を読んで、渡辺和子は口では無条件の愛を言ってくるかもしれないが、心の中では激しい憎悪があり、幾ら愛を唱えたとしてもその憎悪はなくならないと見抜いた。うちの母親はなんとなくそのことが解ったからこそ、渡辺和子を厳しい人だと思ったのであろう。

 自分の父親が殺されたのに、恨みを抱かなければ人間ではない。刑法さえなければ、敵討に走るべきであろう。しかしそういうことをせず、なんの縁があったかは知らないがキリスト教に改宗し、しかも修道院に入って修道女になったのなら、愛によって憎悪を消し去るということをすべきであろう。

 それなのにそれができないというのであるなら、渡辺和子には「我執」があり、我が身を本気で神に捧げていないということなのである。

●渡辺和子は昔「鬼」であり、今でも「鬼」

 渡辺和子は若い時には友達から「和子さんは鬼みたい」と言われたという。子供の頃から競争心が強く、負けず嫌いで、他人を思いやることがなかった。そのためにキリスト教に改宗し、修道院に入って修道女になったのだが、それでも自分の本性を変えることなどできない。

 俺に言わせてみれば、「渡辺和子は修道女になっても鬼」なのである。「昔も鬼で、今も鬼」。こう考えると彼女が一体何をやっているのか実に良く解ることになる。女性だとか、修道女だとか、そういう囚われがあるからこそ、彼女の本性が見えないのである。

 渡辺和子の人生を見ると、敢えて厳しい道を歩んできたということが実に良く解る。政府がキリスト教に統制を加えていた戦時中にキリスト教に改宗し、普通の信者で生きていればいい物を、戦後になって修道院入りして修道女になる。

 修道女になれば普通の修道女として生きて行けばいいのに、人生の教訓となるような美辞麗句を掻き集めて自分に重荷を背負わしていく。しかしそういう生き方は疲れるから、それでキリスト教の信仰で肩の荷を下ろし、疲労を回復させたのならまた厳しい道を歩むのである。

 ローマカトリック教会の指導が悪いのか、サミュールノートルダム修道会の指導が悪いのか、そういう内情のことは解らないのだが、渡辺和子が宗教に於いて真っ先にやらなければならないことは、その鬼ような生き方を捨て去ることなのである。

●修道院の役割

 そうは言っても、渡辺和子が修道院に入ったのは実に正解だった。彼女の性格からするなら、修道院のような甘い宗教組織ではなく、仏教の臨済宗や曹洞宗のように厳しい修行がある宗教組織に入ってしまった方が良かったかもしれない。しかしこういう物は「法縁」のなす物だから、修道院に縁があったのなら入ってしまうべきなのである。

 もしも渡辺和子が修道女にならなかったのなら、彼女は心の中に憎悪を持って生き続けたことであろう。憎しみは必ず周囲の人たちを気付け、不幸にしていくし、そして何より彼女本人が自らの憎しみのために傷つき、不幸になっていってしまうのである。

 渡辺和子は2・26事件の最大の被害者である。だからといって憎悪を持って世俗の中で生きられたら、社会は堪ったものではないのだ。この世で生きていれば憎しみを抱いてしまうことがある。だから宗教の力を使って、その憎しみを消滅させたり、消滅できないならそれを心の奥深くに閉じ込めておかなければならないのである。

 政治という物は必ず勝者と敗者を生む。勝者は権力を獲得し、敗者は殺される。しかしそうやって政争のために殺し合いをするのは余りにも不利益だから、それで日本では仏教を受け入れ、政治的敗北者たちを出家させて僧侶にした。それと同じことを西洋ではキリスト教を使ってやっていたのである。

 修道院は人畜無害の組織に思えて、実は国家にとって非常に必要とする宗教組織なのである。日本では親鸞の登場によって戒律破りが行われ、縒りによって明治維新後に他の宗派まで浄土真宗に倣って戒律を無視するようになってしまった。だからローマカトリック教会の修道会が、嘗て仏教の教団がやっていたことを代わりをやっているのである。

 勘違いしてはならないのは、キリスト教が素晴らしい宗教だからそういうことができるというのではない。キリスト教は教義に於いて致命的な欠陥が存在する。突き詰めて考えると教義が崩壊してしまうほど、脆弱な宗教なのである。しかしそれでも修道会が存在することで、国家がそれを必要としてきたのである。

 キリスト教であっても、プロテスタントには修道会がないのだが、修道会のないプロテスタントでは、よりによって牧師が憎悪を持って信者たちに説教をしてくることになる。憎悪を巧く処理する機能を持っていないので、愛を唱えながら憎しみを叫ぶということになってしまうのである。

●面倒臭いからこそ、やりたくない

 渡辺和子の言っていることは、飽くまでも修道女の意見なのであって、世俗の中で生きる人たちの意見ではない。彼女は自分の心の奥底にある憎悪が爆発してしまわないように、自分に厳しいことを言って、それで抑え込んでいるのである。

 大体、『面倒だから、しよう』という本の題名にしても、確かに面倒臭くてもやらなければならないことはあるが、しかし人間であるなら面倒臭いことはしたくないものなのである。「面倒だからやろう」と言われても、殆どの人たちは面倒臭いことが大嫌いで、便利な物を求めたがる。人間とはそういう生き物なのである。

 「置かれた場所で咲きなさい」と言われても、花は土があるからこそ根付き、咲くことができるのであって、コンクリートの上では咲くことができない。花は咲く条件がないと咲けないのであって、花が咲くということは条件が或る程度揃ったからこそできることなのである。

 若い人たちにはこういうことが解らないかもしれない。俺だって解らなかった。しかしうちの母親は解ってしまった。確かに彼女の言っていることは正論である。しかしそれを本当に実行しようとすれば、余程、自分に厳しくしないとできないのである。

 事実、渡辺和子自身、50歳の時には「鬱病」、60代の時には「膠原病」、その副作用による「骨粗鬆症」と三度の「圧迫骨折」をしている。修道女はセックスをしないので、更年期に差しかかるとどうしてもこの手の女性特有の病気に罹ってしまうのだが、それにしても、俺に言わせれば「神様がもっと楽に生きなよ」と言っているにしか思えないのである。

●「随筆集」というよりは「雑文集」

 渡辺和子の本は随筆集ではない。雑文集と言った所である。自分が徹底的に考え抜いて何かを言っているのではなく、修道女として仕事をしながら書いたので、それで心にグイッと来る物がないのである。本来なら、こういう物は出版せず、ノートとして存在させておくべき物だろう。

 しかしこういう物は時と場合によっては必要になってくる。なぜなら世間の人々は繁栄の中で「厳しさ」という物を完全に忘れ去ってくるからだ。便利なことばかり追求し、自ら苦労して何かを成し遂げることをしない。そうなってしまえば世間の人たちに「喝」を入れるためにも、修道女の言葉が必要とされてくるのである。

 キリスト教的に言えば、「地の塩」「世の光」ということになるのだろうが、彼女はまさにキリスト教徒として、イエスの教えを立派に果たしていると言っていい。キリスト教徒たちの中には「地の塩」「世の光」という言葉を好む者たちがいるのだが、そういう人に限ってイエスの教えを頭で捉えてしまい、行動に移さないのである。

 但し言っておくが、日本ではこういうことは、本来なら仏教の僧侶たちが担っていた役割なのであって、キリスト教の修道女の出る出番などなかった。それなのに仏教の僧侶たちが戒律を守らずに堕落的な生活を送っているからこそ、世間の人々は仏教の僧侶の言葉に耳を傾けず、修道女の言葉に耳を傾けているのである。

 どこの世界でも成らず者はいるものだ。折角、法縁があって仏門に入り出家したのだから、きちんと戒律を守って僧侶の仕事をすればいいものを、親鸞が戒律破りをやったとか、他の僧侶たちが戒律を遵守していないとかいう理由で、戒律を守らず、肉食妻帯をしてしまうのである。これでは僧侶として失格なのであって、こういうことをやればやるほど、僧侶の地位が下がって行くのである。 

 渡辺和子は心の奥底で自分の憎しみを捨て去っていない。修道女になって修道生活を長らく送って来たのにそれができなかった。彼女の年齢が現在80歳を超えているのだから、もう憎しみを捨て去ることはしないだろう。しかしそれでも凡俗の百万人の僧侶たちよりも遥かにマシな生き方をしているのである。

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