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人徳と対人関係

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●徳の効果は相手によって変わる
 
「徳」は個人がどう生きていくのかの問題なのだから、他人は関係ない。周囲の人たちの徳の状況がどのような物であっても、自分が徳を積んでいくようにしなければ成らない。しかし徳の効果は相手によって変わる。自分が良かれと思ってやった事でも、相手にとっては悪い事になってしまったという事は有り得る。
 
 哲学者たちは徳に関してあれこれ論じて来たが、なぜだか徳の効果について論及した者はいない。なぜなら哲学者は思索するのが大好きだから、相手の事など全く考えていないからだ。だから哲学者の言っている事を正しいと思って実践してしまうと、正しい事をやっている筈なのに行き詰まってしまい、それで最終的には自殺する事になってしまう。
 
 これに対して宗教家たちは徳に関して論じ、その上で徳の効果にも論じている。なぜ宗教家たちがそういう事をするのかと言えば、宗教家たちは信者たちに教義を説かなければ成らず、信者たちに徳行を実践させる事で徳を積ませようとするからだ。それゆえ宗教的に正しい事をやっても行き詰まる事はなく、少なくとも自殺する事はなくなる。
 
 人間という動物は人間界の中で生きている事を絶対に忘れてはならない。例えば周囲の人たちが堕落し腐敗しているのに、自分だけが善行を行えば、「この偽善者め!」と罵られ、周囲の人たちがみんな善行に励んでいれば、自分が善行をやっても、「そんなの当然だよ!」となんの評価もされない。
 
 こうなっているからこそ、自分が徳を積むに当たって、周囲の人たちの評価を基準にして行っては成らず、必ず自分が自分の基準で自分の徳を判断して行かなければならない。しかし徳の効果は相手の意見も聞かなければならず、それで徳の評価は変動を受ける事になってしまうのである。
 
 
●立場の互換性
 
 人徳と対人関係の問題に関しては、儒教の「孔子」とキリスト教の「イエス」が全く正反対の事を要っている。
 孔子は、
「自分のして欲しくない事は相手に施す事勿れ」
と言い、イエスは、
「自分のして欲しい事を相手に施しなさい」
と言った。
 
 この考え方の違いは、両者の生まれと育ちが違うから生じた。孔子は両親が野合して生まれたので、要は「私生児」という事に成る。それで自分が私生児である事を子供の頃から言われ続けてきたので、「自分のして欲しくない事は相手に施す勿れ」と主張したのである。
 
 これに対してイエスも私生児だった事では同じだが、イエスの母親は売春婦であったらしく、本当の父親が一体誰だか解らなかった。恐らく父親はユダヤ人ではなく、ガリア人であったろう。イエスのような連中が集まってクムラン宗団を作り、自分のして欲しい事を相手にもする事で、心の傷を癒していったのである。
 
 しかしながら、この2つの主張は或る程度までなら通用するが、或る段階になってしまうと通用しなくなってしまう。もしも自分のして欲しくない事が、相手にとって違う場合、もしも自分のして欲しい事が、相手にとって嫌な場合、一体どうすればいいのかという事に成る。自己中心で物を考えているからこそ、必ずしも正しい結果にはならないのだ。
 
 では一体どうすればいいのかといえば、それは、
「立場の互換性」
を持てばいいのである。要は、
「相手の立場に立って考えてみる」
という事なのであって、自分の立場で物を考え、その上で他人の立場に立って物を考えるからこそ、最善の結果を得る事が出来るように成るのだ。
 
 利己的になって自分の利益ばかり追求していれば、その内、相手は関係を断ってくる事であろう。まずは相手に利益を与える。それによって自分も利益を得られるようにする。だから両者は関係を維持し続ける事が出来るのであって、関係を維持している限り常に利益を得続ける事が出来てしまうのである。
 
●功徳循環
 
 功徳は自分の力によって発生する物だが、功徳は自分のためだけにあるのではなく、相手のためにもある。これが、
「功徳循環」
なのであって、功徳は循環する事で双方に利益を齎し、循環しまくる事で功徳を増大させていく。
 
 功徳には利己か利他かの問題があり、利己的に振る舞う事は非難され、利他的な行為は賞賛される。しかし全く利己的な要素なしに利他的な行為だけをやっている人は絶対にいない。純粋な利他は理論上では存在しても、現実世界では絶対に有り得ない物なのである。
 
 最初は利己的であっても、やっている内に利他的に成って来る。最初は利他的であっても、やっている内に利己的な物を充分に満たしてしまう。これが利己と利他の本当の姿である。だから利己か利他かで言い争うより、功徳循環の存在に気づく方が重要なのであり、大事な事は功徳を循環させる事なのである。
 
 功徳循環は通常なら普通通りの回転をして行く事に成るのだが、或る日突然に何かが起こると「加速度原理」が働き、功徳を大量発生させる事に成る。ビジネスなら、就職したとか転職したとか起業したとか、私生活でなら結婚したとか、出産したとかである。だから普通の人生を歩んではならない。「何か変化を起こすような人生」を送らなればならないのである。
 
 世の中には「平凡な人生を送りたい」と望む人たちは結構多い。そういう人たちは自分なりに正しい事をやっているのだが、それなのに功徳は大して得ていない。功徳循環の存在に気づかず、加速度原理を使用しなければ、自分が必要とする功徳すら得られなくなってしまうのは当然の事なのである、
 
●「核となる人間関係」の重要性
 
 功徳循環を巧く存在させ、巧く機能させていくためには、
「核となる人間関係を作る事」
が重要になってくる。功徳循環は核となる人間関係があれば壊れる事がなくなり、それで功徳を大量に生み出していく事が出来るようになる。
 
 だから若い時には親友と友情を育み、恋人と恋愛する事が必要なのである。いい年になれば結婚してしまい、配偶者と絶対に離婚しないようにする。結婚していれば幾らでも徳を生み出していく事が出来るようになる。結婚しなければ徳を作り出す事には必ず限界にぶち当たる事になってしまう。
 
 こういった横の関係の他に、師弟関係のように上下関係も必要である。師匠と弟子できちんとした師弟関係が出来上がれば、そこでも功徳循環が起こるので、徳は大量生産されるし、たとえ自分が間違った生き方をしようしても、すぐに修正してくれるので、失敗する確率を劇的に引き下げてくれるようになるのだ。
 
 全ての人たちと仲良く成る必要性はない。人間には「人間関係理論」という物があって、自分が関係を持てる人たちには常に限界がある。人間は如何なる者であっても、最大で150名程度の人たちとしか関係を築く事は出来ない。それ以上になってしまうと、人間関係は非常に希薄なり、なんの役にも立たなくなってしまうのだ。
 
 だから自分がどんなに正しい事をやっても、付き合う人たちが多くなってしまえば、自分がパンクしてしまう事に成る。それゆえ孔子は「仁」の教えを人々に説きながらも72人の弟子しか持てなかったし、イエスは「愛」の教えを人々に説きながらも12人の弟子しか持てず、しかもその内の1人は自分を裏切って、それで死刑になって殺されてしまったのである。

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