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「功徳」とはなんぞや?

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●功徳とは?
 功徳とは「効能福徳」の事であり、仏教徒たちが宗教行為を行い、効能によって福徳を生ずる事を言う。功徳が「コウトク」と読むのではなく、「クドク」と読むのは、日本の仏教が中国の南朝から伝わってきたので、呉音で発音する事になっているからだ。通説では欽明天皇の御世に百済から仏教が伝来したと言っているのだが、実はそれ以前に仏教は中国から日本に伝来していたのである。
 
 仏教徒たちは功徳という言葉を当たり前のように使うし、別に仏教でなくても、功徳という言葉は日本語として使われている。しかし功徳の意味を本当に理解して使っているのだろうか? 恐らく理解していないだろう。よく解っていない言葉を使っていれば、出鱈目な事しか出来ないのは当然の事なのである。
 
 功徳はサンスクリット語の「グナ」(guna)を中国語に翻訳した物であり、グナとは「良い性質」を意味し、そこから「善行」に転じて、そして「利益」を意味するようになった。漢字でもそうなのだから、こうやって1つの単語が意味を広げていってしまうと、一体、仏教の僧侶たちはどういう意味で翻訳したのかが、重要な問題になってくる。
 
 「良い性質」というのは本来の意味なのだが、この意味では使われていない。「善行」か「利益」かであり、その2つの意味で使っている。例えば「功徳を施す」といったら、功徳は善行を意味している。「功徳を得た」といえば、功徳を利益を意味する。善行をすれば利益を生じるが、それは必ずしもそうではないから、功徳を利益として使うのは、条件が付いてしまうのだ。
 
 中国の僧侶たちは、サンスクリット語が出来る者は別であるが、中国語しか出来ないなら、「グナ」を「功徳」として理解した筈である。グナは善行と翻訳したのなら、それは間違いではないのだが、「効能によって福徳を生じさせる」と成れば、意味がグナから離れて行ってしまう事に成る。
 
 こうなってくると、「効能」か「福徳」か、という事になってしまうのである。
 
 
●大和言葉で読んでしまうと
 中国人たちですらこの有様なのだから、功徳という言葉が日本に伝わってくると、日本の僧侶たちは絶対に勘違いした事だろう。功徳を大和言葉で読んでしまうと、
「九つの得」
という事になってしまい、要は、
「沢山の利益」
という事になってしまう。
 
 功徳には利益という意味もあるので、その解釈は間違いではない。しかし本当に正しいのかといえば、決してそうではない。確かに利益を生じさせるが、沢山の利益を与えられる訳ではなく、もしも沢山の利益が欲しいのなら、善行をどんどんやっていかなければ成らない。しかも善行をやっても必ず利益になる訳ではない事を知っておかないと、些細な失敗で激怒してしまい、善行をやり続ける事をやめてしまう事だろう。
 
 僧侶たちはそれなりに修行をするので、善行する事が身に付いているし、善行しても必ず利益が出る訳ではないという事を経験則で理解している。しかし普通の信者たちは修行していないのだから、それでただ単に仏教を「ありがたや~」「ありがたや~」といって拝むようになってしまったのである。
 
 現代でこそ、日本人の識字率は99%を超えているのだが、奈良時代や平安時代というのは、文字を知っている者たちは皇族、貴族、僧侶たちだけなのであって、庶民たちは文盲であった。だが仏教は古墳時代には伝来していて、庶民たちに広まっていった。そういう事だからこそ、僧侶たちと信者たちに間で、仏教に対する考えの違いが生まれてしまったのは、当然といえば当然なのである。
 
 今も昔も仏教を研究するのは僧侶たちであり、現代ではそこに仏教学者たちが加わっている。こういう研究の仕方は決して悪い事ではない。ただ忘れては成らないのは、僧侶たちが考えている仏教と、信者たちが考えている仏教は違うのであって、その違いが解っていないと、とんでもない間違いを引き起こす事に成るのだ。
 
 
●鎌倉仏教の分かれ道
 
 俺は「功徳の意味の捉え方の違いが、鎌倉仏教を分けたのではないか?」と考えている。
 
 法然と親鸞は「他力本願」であり、念仏するだけで、善行は何もしない。これは庶民たちの仏教理解に即しており、それで庶民の間に浄土宗や浄土真宗は広まっていった。この他力本願という言葉は仏典には全く存在せず、法然や親鸞の書物に出て来る言葉であり、仏教の教義からすると、正しい用語ではない。日本独自の言葉だからこそ、日本人には受けたのである。
 
 栄西や道元は他力本願を否定し、僧侶たちに坐禅をさせ、禅問答をさせ、そして労働をさせた。これはまさに効能福徳を生み出す事に成る。「心を落ち着け、然るべき相談者を持って知恵を授かり、労働し続けていけば、如何なる問題でも解決する事が出来る」のは本当に当たり前であろう。
 
 なんでこんな違いが生じたのかといえば、「法然と親鸞は海外留学をしていない」「栄西と道元は海外留学をしている」のであって、この差が非常に大きい。海外留学すれば、中国語を勉強しなければ成らず、仏教用語を曖昧な意味で使う事は許されない。それで功徳の正しい意味を理解できたと考える事が出来る。
 
 実を言うと、曹洞宗が広まった所は、必ず文化レベルが上がっている。関東地方は曹洞宗の勢力が強い地域で、その中でも「東京都」「神奈川県」「千葉県」「埼玉県」には曹洞宗の寺院が多く、「茨城県」「栃木県」「群馬県」では曹洞宗の寺院の数が少ない。一方、大阪府や京都府は浄土宗や浄土真宗が強いのだが、東京に比べると、政治も経済も文化も大いに停滞してしまっている。念仏ばかりしていては、発展する訳がないのだ。
 
 因みに、葬儀屋からの情報によると、葬式のお布施代が最も高いのは曹洞宗という事になっており、これがジャーナリストたちから批判を受ける事になってしまっている。しかし宗教にかかる費用は高くても、文化レベルを高くしてくれるのなら、その方が有難いのであって、宗教にかかる費用が少ないために、文化レベルが低くなってしまっては、その方が悪影響は大きいであろう。
 
●日蓮はちょいと別物
 
 鎌倉仏教の中でも日蓮はちょいと別物であって、日蓮は末法の世に於いて、『法華経』を広めるのに絶好のチャンスと思い、それで布教を重視し、功徳を度外視したのではないか? 尤もそういう事では信者たちが増えていかないので、加持祈祷する事によって、功徳を与えている。それが日蓮宗のスタイルに成ってしまった。
 
 近代になってから、日蓮宗からは霊友会が出て来るのだが、『法華経』を使って先祖供養をやるという事を遣り出した。飽くまでも『法華経』は効能を生み出す物だから、小谷喜美は『法華経』を真面目に勉強しようとする者たちを罵倒したりした。それで霊友会からは分派が大量に発生するのだが、小谷喜美が功徳の内、効能を重視していたのなら、実は彼女の方こそ、正統派の考えを持っていた事になる。 
 
 霊友会に対して創価学会は全く違っており、牧口常三郎は「創価教育学」を作り出し、「真善美」を「利善美」に変えてしまった。真実がどうかは誰に解らないのであって、だから創造して新たな価値を生み出せばいい。その新しい価値が「利善美」なら、何も新しい価値を生み出す事無く、真実を探求している者たちよりも遥かにマシという事に成る。
 
 創価教育学会は教育者たちの集まりとして出発したが、その後、日蓮正宗の檀家組織になり、そして創価学会として新興宗教団体になっていくのだが、創価学会の基本的な考え方は、功徳の中の「福徳」を重視しているのであって、これなら庶民受けする訳である。しかも戸田城聖はこれをより単純に「幸福製造機」という言葉で言い表した。だから創価学会は浄土宗や浄土真宗と戦うのは当然であって、霊友会系の新興宗教団体たちよりも、格段に高い戦果を挙げたのである。
 
 近代以降に出て来た宗派たちは、いずれ「東京仏教」というカテゴリーで括られるだろうが、まだ新しいので評価は定まっていない。しかし仏教用語の「功徳」に着目すれば、東京仏教の宗派たちは、「効能」か「福徳」かに分かれて争っているという事に成る。功徳の意味を正しく理解している臨済宗や曹洞宗はびくともしないが、功徳の意味を誤解している浄土宗や浄土真宗は信者たちを奪われる事になってしまっているのだ。
 
 

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